1988年『揚羽蝶が壊れる時』でデビュー、
1991年『妊娠カレンダー』で芥川賞を受賞。
代表作は『博士の愛した数式』で、
本屋大賞や読売文学賞を受賞、映画化もされた。
映像のバックに流れるチェロの音が、今でも胸に響いている。それはどこまでもゆったりと、慎み深く、登場人物たちを包み込んでいる。いつしかそれが音楽であるのを忘れ、吹き抜けてゆく風や川のせせらぎのように思えてくる。元々、人間にとって時間とは、こんなふうに流れてゆくものなのだろう。つかみ取ろうと願っても叶わず、掌に感触だけを残し、遠ざかってゆく。けれどその感触は、記憶という名の箱におさめられ、宇宙の流動の中を巡り続ける。“遠くない未来”に生きる『箱の中の羊』の人々は、流れ去った過去を引き戻す術を手にした。人間と時間の本来あるべき関係を操作できる、と思ってしまった。しかしこれは決して、そういう人間たちを非難するための映画ではない。あまりにいびつで痛々しく、どう箱におさめたらいいのか見当もつかず、ただその前で立ちすくむしかない記憶を、いくつも抱えながら私たちは生きている。まさにそれこそが人生なのだとしたら、生きるとは何と残酷な営みであろうか。だからこそ、せめて錯覚でもいい、過去の一瞬をなかったことにして、やり直せたら……と思う人々をどうして否定できるだろう。むしろ登場人物たちの存在が、自らの心の内と触れ合い、哀切な温かみがにじみ出てくるのを抑えきれない。何度も私は、音々や健介とともに、翔を抱きしめている気持になった。腕の中にいる者が、過去の少年か、現在のヒューマノイドか、別にどちらでも構わなかった。取り返しのつかない欠落を映し出す者として、両者に区別はないのだ。欠落の底に音々や健介が見るのは、暗闇かもしれない。あるいは、闇の果てに灯る一点の光かもしれない。もう一つ、大事な視点は、隠れた主人公と言ってもいい樹木だ。工務店のベテラン職人が、木は死んでも生きている、という言葉をさり気なく口にする。死と生。人間にとって最も大きな矛盾であるはずの二つの言葉が、なぜかすんなりと一つにつながり合う。(…つづく)







